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わかりやすい一念三千

わかりやすい一念三千

 


法華経一切経のうちで最勝の経である、という理由は、一念三千の法門が説かれているからです。

一念三千とは、仏が甚深(じんじん)の仏智(ぶっち)をもって悟られた法門で、これによって、宇宙間のあらゆる事象(じしょう)の真実の姿を捉(とら)え、さらに、一切衆生(しゅじょう)に真の幸福を開く道を示すのであります。

まず、一および三千という数についてですが、これは、一つの実在(一念)を三千という体系で捉えているのでありまして、その三千の体系というのは、

  かい    かい     にょぜ     せけん 
十(界)×十(界)×十(如是)×三(世間)=三千という構造によって成っています。

以下、それぞれについて、なるべく平易(へいい)に説明してみましょう。

 


十界(じっかい)
                                                じごく    ちくしょう  しゅら    にん  

十界とは、生命が内より実感している十種類の境界(きょうがい)のことで、地獄界・畜生界・修羅界・人界・

てん  しょうもん えんがく  ぼさつ   ぶっ

天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界をさします。

 


日蓮大聖人は、これをわかりやすく、私たちの人生・生活にあてはめて、次のように仰(おお)せられている。

「抑(そもそも)地獄と仏とはいづれの所に候(そうろう)ぞ、とたづね候(そうら)へば、或(ある)いは地の下と申す経文(きょうもん)もあり、或は西方(さいほう)等と申す経も候。

しかれども、委細(いさい)にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。」(全集1491㌻)

「数(しばし)ば他面を見るに、或時(あるとき)は喜び、或時は瞋(いか)り、或時は平(たいらか)に、或時は貪(むさぼ)り現じ、或時は癡(おろか)現じ、或時は諂曲(てんごく)なり。

瞋(いか)るは地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼、癡(おろか)は畜生、諂曲(てんごく)なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。(中略)

世間の無常(むじょう)は眼前にあり、豈(あに)人界に二乗無からんや。

無顧(むこ)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛(じあい)す、菩薩界の一分(いちぶん)なり。

但(ただ)、仏界ばかり現じ難(がた)し。」(全集241㌻)

地獄界から仏界までの十界は、どこか他処(よそ)の世界にあるのではなく、私達の生命の中にある、というのです。

 


その十界のそれぞれにつき、ごく簡単に述べてみます。

①地獄界(じごくかい)

 地は低下(ていげ)を意味し、獄は拘束(こうそく)されて不自由なこと。
 苦しみの余り、瞋(いか)りすら感ずる苦悶(くもん)の状態。

②餓鬼界(がきかい)

 


 不足感からくる貪欲(どんよく)にとらわれている状態。

③畜生界(ちくしょうかい)

 


  理性や道理ではなく、目先のことにとらわれ、本能のおもむくままに行動する状態。

以上の三界を三悪道(さんなくどう・さんあくどう)と総称する。

④修羅界(しゅらかい)

 


 ひねくれ曲がって、勝他(しょうた)の念に駆(か)られている状態。

ここまでの四界を四悪道とか、四悪趣(しあくしゅ)と総称する。

⑤人界(にんかい)

 


 人間らしく、平常で穏(おだ)やかな状態。

⑥天界(てんかい)

 


 思うとおりになって、喜びを感じている状態。

以上の六界を六道(ろくどう)といい、残る四界を四聖(ししょう)という。

⑦声聞界(しょうもんかい)

 


 先人の教えを学ぶ中から、無常観(むじょうかん)など、分々の真理を会得(えとく)していく状態。

⑧縁覚界(えんがくかい)

 


 独覚(どっかく)ともいい、声聞(しょうもん)が先人の教えを求めるのに対し、自然現象等を通じて自ら分々の悟りを得る状態。

声縁・縁覚の二界を合わせて、二乗(にじょう)ともいう。

⑨菩薩界(ぼさつかい)

 


 自身のことよりも、他人の幸せを願い、そのために尽(つ)くす状態。

声聞から菩薩までの三界を三乗ともいう。

また、地獄から菩薩までを束(つか)ねて九界ともいう。

⑩仏界(ぶっかい)

 


  崩(くず)れることのない自由自在の生命活動(常)、

  生きていくこと自体を楽しむ絶対の幸福感(楽)、

  何物にも粉動(ふんどう)されない円満かつ強靱(きょうじん)な主体性(我)、

  何物にも汚染されない清浄(しょうじょう)な生命(浄)、

  以上の四つに象徴される最高の境界(きょうがい)。

仏法では、私達の生命が内より実感する状態を、こうした十種類の境界に分析しているというわけです。

 


そして事実、我々の生活を委細(いさい)に観察してみますと、様々な縁に触れて悩んだり喜んだり・・・と、瞬間瞬間、十種の境界のいずれかを感じて生きていることがわかるのであります。

 


ただし、三悪道・四悪趣といった低い境界の方が、比較的たやすく現れやすく、四聖等の勝(すぐ)れた境界(なかんずく最高の仏界)は、なかなか現じがたいのが実際です。

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十界互具(じっかいごぐ)
分かりやすく説明するため、引き続き、我々の人生・生活を例に述べてまいりましょう。

 


前述のように我々の生命は、瞬間瞬間、縁に触れることによって十界のいずれかを感じています。

 


ある時は地獄界(苦しみ)を感じ、ある時は餓鬼界(不足感や欲求)を感じ、ある時は天界(喜び)を感じ・・・という具合にです。

 


では、それは誰でも全く同じなのか、誰でも同じように、ただ縁に触れて十界のそれぞれを感ずるだけなのか、といいますと、それは違います。

 


よく観察するとわかりますが、瞬間瞬間、縁に触れて表面に現れてくる十界の実感――そのさらに奥に、また十界が存しているのです。

 


それは瞬間瞬間に簡単に移り変わっていくようなものではなく、いわば人格の基調にあたる部分に、十種類の境界があるということです。

 


たとえば、根性がひねくれており、常に、自分が他人よりも上位に立つことや、面子・プライドにばかり捉(とら)われている者、――この人間は、ある瞬間に喜び(天界)や平穏(人界)を感じていたとしても、基調としては修羅界の人間といえるでしょう。

 


また、弱肉強食のような世界に身を置いて、強い者に媚(こ)びを売り弱い者は虐(しいた)げるといった、動物的本能のままに生きている人間――これは畜生界の人です。

 


あるいは、道理・筋道を重んじ、恩や信義を弁(わきま)えて生活する平常な人、これは人界の人でありましょう。

 


この他にも、何事につけ楽天的な人、学者、芸術家――等、いろいろ例を挙げたらキリがありませんが、要は、その人その人により、異なる境界を基調として生きている、ということが理解できると思います。

 


したがって、私たちの生命には、まず基調となる十界が具(そな)わり、さらに、瞬間瞬間、縁に触れて表面に現れてくる十界が具わるのであります。

 


この十界にさらに十界が具わることを十界互具(じっかいごぐ)といい、十界×十界で百界という数量になります。大聖人は、

「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(全集189㌻)

と仰せですが、この十界互具こそ、凡夫が仏になるという一念三千の法門の骨格にあたるのであります。

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十如是(じゅうにょぜ)
すでに説明してきた十界という十種類の境界が、どのように身心の上に現れ、活動し、また変化していくのか――それを示したのが十如是です。

 


十如是のそれぞれについて簡単に述べてみましょう。

 


①如是相(にょぜそう)

 


  形として捉えられる万物の姿のこと。

  物質や、我々の身体、人相、声などをさす。

②如是性(にょぜしょう)

 


  形として捉えられない内面の性質のこと。

  我々の心、智恵などをさす。

③如是体(にょぜたい)

 


  相(そう)と性(しょう)とを兼ね備えた当体(とうたい)のこと。

 


  たとえば我々の生命は肉体と精神とから成っていて、これを切り離すことなどできないのであり、その肉体と精神を具(そな)えている生命それ自体をさして、体(たい)という。

④如是力(にょぜりき)

 


  相・性・体に内在している力のこと。

⑤如是作(にょぜさ)

 


  力が実際に発動し、作用していくこと。

⑥如是因(にょぜいん)

 


  内在している原因のこと。

 


⑦如是縁(にょぜえん)

 


  外界からの助縁(じょえん)のことであるが、外界の事象を自己の助縁とするか、しないかは、自己の主体に委(ゆだ)ねられている故に、縁も十如是の一つに含まれる。

⑧如是果(にょぜか)

 因と縁とが和合して、何らかの力が発動した場合に、いかなる結果が生ずるか、が瞬時のうちに定まることになる。その内なる果のこと。

⑨如是報(にょぜほう)

 


  定まっていた果が、後々(のちのち)、具体的に外に現れること。

⑩如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)

 


  始めの相(そう)を本(ほん)、終わりの報(ほう)を末(まつ)とし、本から末までが一貫して一個の生命の姿であること。

以上のような十如是は、あらゆる実在に等しく具わっておりまして、前(さき)の十界が衆生の差別相を表すのに対し、こちらは、常に等しく具わる平等の側面を表しています。

 


つまり、現在の姿において、地獄界や人界などの差違(さい)があるのは、その人その人の過去からの生き様が、平等に具わる十如是の働きによって、差違となって今に表れてきたといえましょう。

 


また、さらにいえば、たとえ現在の境界に差違があろうとも、等しく十如是を具えているのですから、今の生き方によって先々の境界を変えていくこともできるのであります。

 


この十如是が加わることによって、百界×十如是で千如是(せんにょぜ)という数量になります。

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三世間(さんせけん)
これまで述べてきた百界・千如(せんにょ)という段階では、個々の存在の違いや、住する環境との関係がいまだ明確ではありません。それを示すのが三世間です。

 


①五陰世間(ごおんせけん)

 


  五陰とは、色(しき)・・・形で捉えられる側面。肉体、物質、

         受(じゅ)・・・外界の事象を受け容(い)れていく働き、

         想(そう)・・・想念すること、

         行(ぎょう)・・・想念に基(もと)づいて自ら行動すること、

         識(しき)・・・思慮(しりょ)・分別(ふんべつ)する精神の作用という五つをいい、これが個々の存在によって異なっていることを、五陰世間という。

衆生世間(しゅじょうせけん)

 


  衆生とは、訳して有情(うじょう)といい、宇宙間の存在のなかでも意識・精神作用を有するものをさす。

 


  しかして、それぞれの衆生は、あるいは地獄界を基調とした地獄の衆生、あるいは人界を基調とした人界の衆生というように、十界の差別の中に存在しており、これを衆生世間という。

③国土世間(こくどせけん)

 


  国土とは、衆生の住する環境をいうが、これを外界に置くのではなく、衆生の生命と不可分(ふかぶん)の関係とみる。

 


  しかして、同じ国土であっても、住する衆生の境界に従って、あるいは地獄あるいは仏国という違いが生ずることを、国土世間という。

以上の三世間を加えることにより、千如是×三世間で三千世間という数量が揃(そろ)い、一念三千の法門が整足(せいそく)します。大聖人は、

「百界千如は有情界に限り、一念三千は情・非情に亘る」(全集239㌻)

と仰せですが、百界千如の説明では有情界に関する域を出なかったものが、三世間を加えて一念三千が整足しますと、はじめて、有情のみならず、非情界や国土草木までを含めた真理として展開されるのであります。

 


文底独一本門(もんていどくいちほんもん)の事(じ)の一念三千
さて、この一念三千の法門は、法華経の迹門(しゃくもん/法華経の前半14品)に説かれている十如是の文(もん)、および本門(ほんもん/法華経の後半14品)で解き明かされた十界互具・三世間等の義(ぎ)をもとに、中国の天台大師が、その著書『摩訶止観(まかしかん)』の中で体系化されたものです。

 


天台は、この一念三千の法理によって、自身の生命を瞑想(めいそう)・内観(ないかん)し、悟達(ごだつ)することを説きました。

 


しかしながら、本未有善(ほんみうぜん)の荒凡夫(あらぼんぷ)のみが出生(しゅっしょう)する、この末法濁世(まっぽうじょくせ)において、そうした瞑想や内観によって悟達などできるでしょうか。

いかに「貪欲はいけない、慈悲をもて」と言いきかせてみても、また、「単なる貪欲でなく、慈悲心の上の貪欲となるよう」心がけてみても、末法の凡夫にとっては、結局実現不可能な観念上の法門であり、誰一人として成仏などできぬのであります。

 


また、成仏ができないとなれば、十界のうちで顕現(けんげん)するのは、菩薩界が限界となり、したがって十界互具は九×九で八十一の数量にしかならず、これでは一念三千も単なる架空(かくう)の法門となってしまいます。

 


ここに大聖人は、

「一念三千の法門は、但(ただ)、法華経の本門寿量品(じゅりょうほん)の文(もん)の底に秘ししづめたり」(全集189㌻)

 


「一念三千を識(し)らざる者には、仏、大慈悲を起こし、五字の内に此(こ)の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚(ようち)の頸(くび)に懸(か)けさしめたまふ」(全集254㌻)

 


「一念三千の法門をふりすすぎ(振り濯ぎ)、たてたるは大曼荼羅(まんだら)なり。当世の習いそこないの学者、ゆめにもしらざる法門なり」(全集1339㌻)

等と仰せられ、法華経本門寿量品の文底に秘沈(ひちん)されていた、真の仏の御当体たる大御本尊を建立されました。

 


この大御本尊こそ、一念三千を具現(ぐげん)した、事の一念三千の御当体であり、我々末法衆生は、この大御本尊を人生の根本として信じ奉(たてまつ)ることをもって、仏界を根本(基調)とした人生と全く同じ、絶対的幸福を享受(きょうじゅ)することができるのであります。第二十六世日寛(にちかん)上人は、

法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為(な)す」(富士宗学要集三巻 21㌻)

と仰せですが、末法法華経たる大御本尊に対する絶対の信心――これこそが、我々末法衆生の悟りであり、成仏なのであります。

 


また、これ以外に事の一念三千はありません。