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一念三千 1日/1万遍の唱題を目標に

一念三千



 いわゆる、一日一万遍(約三時間)の唱題。
 

 生命は「空(くう)。」空(くう)は⇒「仮(け)。」中は、(中道)、の三締であります。

   ないと言えば無い。           あると言えばある。       あるともないとも言える。

戸田先生の獄中の悟達です。
簡単に言えば、
 あるといえばある(仮)。
 ないといえばない(空)。
 あるともないともいえる(中)。そういうことですよね。

 ともあれ、生命は十界の中にさらに十界がある十界互具で、100に細分できるわけです。
 そして、その十界にはそれぞれ十如是(勤行するときに、三回読むあれです)

※補足

意味は、

「仏と仏だけが極めつくした法が諸法実相である。

法界のすべての物には、その姿としての相(そう)があり、本性があり、本体がある。

そして、そこには持っている力があり、作用していく存在である。

またそこに因と縁があって、その結果としての果報も必ず具わっている。

そして、果報はそのまま相となる。この十如を抜きにしてどんな物も実在しない。」というものです。
如是相(にょぜそう)・・・外面に現れた姿。

如是性(にょぜしょう)・・・内面の性質。

如是体(にょぜたい)・・・事物の実体。外面に現れた姿と、内面の性質を合わせた「全体」のこと。

如是力(にょぜりき)・・・事物に内在している力。

如是作(にょぜさ)・・・事物に内在する力が、他に向かって作用を及ぼすこと。

如是因(にょぜいん)・・・果を招く内因。

如是縁(にょぜえん)・・・因によって果を招くときに働く外界の助縁。

如是果(にょぜか)・・・因と縁との和合により生ずる結果。

如是報(にょぜほう)・・・果によって受けるところの報い。

如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)・・・(はじめの「相」を本とし、終わりの「報」を末として、)この九如是が常に究竟(くきょう/終始一貫)し、一体となって等しい状態であること。

 

が備わっていますー、100(細部化された生命)×10(十如是)=1,000如是(20分)のなりますよね。

 でもって、生命は世間というところに住みます。

三世間

五陰世間、衆生世間、国土世間、ですね。

 

世間とは、差別の義(意味)をいい、 因縁によって生じた一切の事物・事象を衆生世間・五陰(ごおん)世間・国土世間という三種に分けたものです。

また、これまで述べてきた百界・千如(せんにょ)という段階では、個々の存在の違いや、住する環境との関係がいまだ明確ではありません。それを示すのが三世間です。

①五陰世間(ごおんせけん)

  五陰とは、       色(しき)・・・形で捉えられる側面。【⠀肉体、物質、】
         受(じゅ)・・・外界の事象を受け容(い)れていく働き。
         想(そう)・・・想念すること。
         行(ぎょう)・・・想念に基(もと)づいて自ら行動すること。
         識(しき)・・・思慮(しりょ)・分別(ふんべつ)する。

精神の作用という五つをいい、これが個々の存在によって異なっていることを、五陰世間といいます。

衆生世間(しゅじょうせけん)

  衆生とは、訳して有情(うじょう)といい、宇宙間の存在のなかでも意識・精神作用を有するものをさします。

 それぞれの衆生は、あるいは地獄界を基調とした地獄の衆生、あるいは人界を基調とした人界の衆生というように、十界の差別の中に存在しており、これを衆生世間といいます。

③国土世間(こくどせけん)

  国土とは、衆生の住する環境をいいますが、これを外界に置くのではなく、衆生の生命と不可分(ふかぶん)の関係とみます。

  同じ国土であっても、住する衆生の境界に従って、あるいは地獄あるいは仏国という違いが生ずることを、国土世間といいます。

以上の三世間を加えることにより、千如是×三世間で三千世間という数量が揃(そろ)い、一念三千の法門が整足(せいそく)します。大聖人は、

「百界千如は有情界に限り、一念三千は情・非情に亘る」(全集239㌻)
と仰せですが、百界千如の説明では有情界に関する域を出なかったものが、三世間を加えて一念三千が整足しますと、はじめて、有情のみならず、非情界や国土草木までを含めた真理として展開されるのであります。

これら十界・十如是・三世間によって構成される一念三千は、迹門(しゃくもん)・本門(ほんもん)・文底(もんてい)の立てわけがあります。

 

ですから、1000の生命が三つの世間に備わっているとして、1000如是×3世間=3000世間になります。
 つまり、瞬間瞬間移り変わっていく生命は3000あり、それが我が心(一念)に備わっている、ということですね。
 これを、仏法では一念三千といいますよね。

 でもこれでは生命すべてを説いていないのです。空、化、中をかけていないからです。
 はい、これを掛けると、9000になります。約一万ですよね。

 つまり、一万遍の唱題というのは、全ての生命にまんべんなく題目を沁みこませて、すべての生命に仏界を湧現させる修行といえるでしょう。

 この空、化、中の三締は別の言い方もできます。
 真理、智慧、慈悲がそれです。法身(ほっしん)、般若(はんにゃ)、解脱(げだつ)とも言います。

 つまりですよ、

   一日/一時間(3000遍)の唱題だと、物事の真実がおおよそ見えるようになるということ。
 でも、真実が見えただけじゃあまり意味はないですよね。
 その真実を生かす必要がありますからね。そのために必要なのが智慧
 つまり、

   一日/二時間唱題(6000遍)すると、真実が見え、それを生かすことが出来る、そういうことです。
 でもって

    一日/三時間。これをやると凄いことになります。
 
 もうー我慢ならねー! 犬でも猫でも杓子でもとっつかまえて、唱題の凄さを教えてあげたいっ!
 という慈悲が湧くのです。でも、犬や猫じゃねぇー・・・。ってことで人に語りたくなるって算段です。

 ですが、これは理想であって、現実は雑念の唱題になったり、人それぞれの持つ宿業などで、仏界の湧現に各々の偏りがあったりするのです。

 であっても、

   一日/三時間を続けたら、そういう業も消えてゆき、偏りも減っていき。
 犬猫をとっつかまえたくて仕方なくなるんです。
 これが折伏精神。

 なので、自分の悩みだけなら、まあ二時間唱題すれば御の字なのです。
 でも、この仏法は折伏してなんぼのもの、犬猫とっつかまえて、おいこら、知ってるか!
 としてなんぼのもの(笑)
   
 私はそういう自分になりたいのだ!

 ともあれ、三時間楽しく唱題したときの歓喜は凄いんです。
 これは体験してみないとわかりません。
 歩くのに、スキップしたくなるほどの生命状態になります。
 ですから、毎日でなくとも、とりあえずまず、

   一日/三時間の唱題に挑戦して、そういう大歓喜の生命状態を知っておくことが何より大切だと私は思うのです。

 だってさ、それを知っていれば、あとはこちらの一念ですからね。
 おーし、二時間で三時間分の歓喜出すぞー! という深い祈りが出来るようになるからです。
 もうね、こうなったら最強ですよ。まず量をやって、唱題での歓喜がどんだけ凄いかを体験する。

それを知ったら、質を高めていく。

でもって、大きな悩みにぶちあたったら、ひたすら量、量を稼ぐ!

題目の洪水で命を洗いまくる、それでいいと思います。

 でもって、それを知ったうえで三時間とかやったら、自分がスーパーマンに思えますよ。
 ってな訳で、未経験の方は、是非とも一日三時間に挑戦して欲しく思います。

 けど、無理はいけません。
 気分や体調を十分に整えて、楽しみながら喜びながら、ご祈念しながらやる。
 これが大事です。
 苦しいだけの三時間は、苦しいだけなんです。無論、これにも意味はあるんですが、
 これは色々仏法がわかってこないと、自滅する(自分を追い詰めかねない)ので、そこは十分注意がいると思います。
 唱題終わったら、スッキリ!(`・ω・´) これが一番大切でしょう。

 あれですよね、三時間やろうと思ったら、一杯祈りたい項目がないと出来ないので、まずはノートかなにかに、思いつくままご祈念の項目を書きだしてみるといいですね。

 いつかなるぞー! 一日一万遍(3時間)できる自分に!